権力とは人間の精神をずたずたにし、その後で改めて、こちらの思うがままの形に作り直すことなのだ。
社会主義国家に似た、厳格に支配され監視された社会において、異端思想を抱くようになった主人公ウィンストンが徐々に改心させられていく話である。この本はよく、テクノロジーが生活を支配し人々を監視する社会の実現を警告するような文脈で引用されることが多いような気がしていたが、物語の核心はそれとは少し違うところにあった。
ウィンストンは思う――自分よりも高度の知性を持った狂人に対して何が言えるというのだ? こちらの言い分に十分耳を傾けながらも、自らの狂気じみた主張をやみくもに押し通す人間に対して?
自分よりも知性の高い人間が、「カラスは実は白いんだ」と主張したとする。そして拷問の挙句、自分もそうだと思い込むとする。その時世界中のカラスが白くなるのである。独我論を地で行く拷問者に対して、ウィンストンはこのように自らに問い絶望する。本来ならば論破されるべき事項も、党の採用する常識を超えた論理(二重思考という名の矛盾許容など)をもって説明され、その論理そのものに対する疑いは拷問をもって封殺される。こうなった場合、人間にはなすすべはない。
恐ろしいのは、この仕組みはほぼすべての人間に当てはまるであろうことだ。警察による取り調べにも同じ手法が取られている。連日の取り調べとそれによる体力消耗、外部からの情報遮断による客観的視点の喪失、そして論理的思考力と反抗への意思が消耗し、最後には別の人間になる。これは普遍的なシステムであるから、基本的には誰にも抗えない。
そこでは、狂気はどちらか、ということが真剣な問題になる。ある納得出来ない主張を注ぎ込まれるという体験は極めて不快なものだ。自分の持っている視座からすれば、すべての理解を超えたものは狂気に分類される。狂気を埋め込まれることの総毛立つような恐怖。さらに恐ろしいのは、そうして注ぎ込まれた狂気が今度は自分の視座となり正常となって不可視化することである。こうなってしまうと、自分ではどうにも出来ない。
「われわれはとても引き返せないほど徹底的に君を叩き潰すことになる。これから君は、たとえ千年生きたところで元に戻ることが不可能な経験をするだろう。普通の人間としての感情を二度と持てなくなるだろう。君の心のなかのすべてが死んでしまう。愛も友情も生きる喜びも笑いも興味も勇気も誠実も、すべてが君の手の届かないものになる。君はうつろな人間になるのだ。われわれはすべてを絞り出して君を空っぽにする。それからわれわれ自身を空っぽになった君にたっぷり注ぎこむのだ。」
そして実際に物語の最後では、ウィンストンはビッグブラザーを愛しはじめ、そして過去もずっとビッグブラザーを愛していたと信じるようになり落涙する。
我々に当てはめて考えると、実は同じようなことが起きている。それは教育である。教育とは、ある種の義務によって国民全体を一定の思考形式に当てはめるためのシステムである。このシステムにおいて、子供は本来の形式を捨てさせられて、そこに社会の求める形式を流し込まれる。これは本人は意識されないし、それを実行する教師にもおそらく顕在的には意識されない。社会が求める成功や希望を鼻先にぶら下げ、それに向かって走ろうとする限り、生徒にはその形式を受け入れ忠実に実行する他はない。その過程で、その形式は思考の前提化され、本人にはどうしようもないレベルに刷り込まれる。
刷り込まれたものは、構造主義的な主張によって時々白日のもとになり、本人を驚かせる。しかし、そのような暴露に実用的な意味は無い。彼らにとってその視座は信仰でも意識の対象でもないので、そういうものがあると指摘されたところでどうしようもないのである。たとえ意識化出来たとして、それを知りつつも黙って受け入れるしかない。
読後には、自分の思考が自分で制御し保護することができるという、漠然とした思い込みが徹底的に破壊されていることうけあいである。人間に許されるのは、ただそれに従う、もしくそうと知りつつも従う、せいぜいここまでである。