人々の生活というものは真空中に存在するわけではなく必ず地理的な条件がそこには絡んでくる。地理が異なると、気候や自然環境、それに伴う建築、食生活、祝祭さらには人々の気性、言語までもが影響を受ける。そういうものをすべてひっくるめた所謂「文化」の上に、企業や大学といった国際的な存在が成り立っている。それを忘れてしまって、このような上位建築ばかりが存在すると思っていると結局のところ何も知ることは出来ない。その土地に住むということはそういったものとまるごと関わるということであり、ひいてはそれを愛し実践するということであり、その先に様々な展開が広がってくるのである。その土地に固有の言語や文化ということをバカにしていてはなにも得られまい。(もちろん自戒を込めて)
Category: 独言
ワインを飲むということ
もうひとつは、感じるということの意味を知ったこと。厳密には感じたこととその言葉での表現というものがどう関連しているのかということがわかったこと。これはワインの試飲のおかげかなと思う。最初は試飲のテクニック(作法)にそって飲むだけで、まぁ赤か白かぐらいしかわからなかったけれど、ぶどうの種類や特徴を把握し、そういった知識と目の前の得体のしれない液体とを、自分の感性と理性を使って分析し表現するという流れは、わかってくると非常に新鮮でかつとても難しかった。
まず、感じるということそのものがよくわからなかった。しかし、ワインを数多く飲んでいくうちに、神の雫で出てくるような、嗅覚や味覚から瞬時に喚起されるイメージみたいなものは確かに自分の中にあることが分かった。それは今まで意識されることはなく、客に伝える、仲間に伝える、そういう表現の必要性の中で、徐々に遡及的に意識されていったような気がする。こういった自分の中にあったはずなのに意識されてこなかった部分の発見というのはとても楽しい。
また、感じたことを表現することはとても基本的なことだけれど、実際にやってみるとこれまたすごく難しい。感じたことは感じたことであってそれを正確無比に表現することはどうしたって出来ない。自分の中の前例と比較してみたり、他のものに比喩を求めたりして、学問体系の中では有用に見える論理的な分析、表現手法が、自分の感覚に対して四苦八苦する様がとても斬新だった。と同時に、書かれたものがどのように現実の印象と異なっているのかという逆算もできるようになった。(少なくとも書かれたものと現実の感覚というものがどれほどかけ離れたものでありうるかということがわかった。)
さらに、感覚や感情は詳細で分析的な記憶がとてもむずかしい。これはあれだ、というのはぼんやり分かってもではどの点がどのように似ていていどのように異なるのか?などと少し突っ込まれると途端にできない。1杯前のグラスでさえそれは難しい。言葉(文字)に救い出せないということは記憶されないということだ、という歴史家の苦悩もちょっとわかる。文学や絵画などの芸術という、自分の知っていた無味乾燥な知識の外側にあるものを初めて認知した、そしてそういうものがなぜ必要なのか、何を伝えようとしているのか、ということが少し分かったのもこの時だった。
暗い気分のときは
暗い気分のときは暗い気分でもできることをやる。
明るい気分になったらまた頑張る。