ホノカアボーイ

ハワイで生活する日本人の物語である。若者と年寄りが出てきて、生きて死ぬという単純な物語だが、それがとても心地良かった。

ハワイハワイと来てみたけれど お里恋しや つきのにじ

ハワイハワイと来てみたけれど あなた恋しや つきのにじ

途中、倍賞千恵子演じるビーさんが、夕食を共にしていた岡田将生演じるレオとその彼女に配慮して、ひとり部屋を出るシーンがある。ビーさんというのはずっとレオに美味しいごはんを食べさせてあげてきたハワイの母親のような存在である。そこで甲斐甲斐しくレオに配慮する気遣い、その物悲しさがなんとも悲しかった。しかも舞台はハワイである。そこに住む日本人がどれほど寂しい思いをしていたか、容易に想像がつく。「悲しすぎる、悲しすぎるよ」と思ったけれど、そして同時に日本人が日本人コミュニティで日本語の喋れる女を作って自分だけ幸せになっていくこんな物語のどこが良いんだと心のなかで罵倒したけれど、ビーさんはもっと仕掛けを用意していた。彼女がピーナッツが嫌いなのを知って、料理にピーナッツを仕込んでいたのだ。しかも実際は彼女はアレルギーだったので、病院に担ぎ込まれるは、それはもう大変な騒ぎになってしまった。そのどさくさでレオと彼女は別れるんだけれど、それはどうでもよくて、、なんかそういうのいいなぁと思いました。年寄りが幸せじゃないにしても、ちゃんと生きている。そういうのって若者にも希望を与えるよね。。

「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー

「わしの原則によるとな、どんな女の中にも、けっして他の男には見つからんような、すこぶる、そのおもしろいところが見つけ出せる――だが、自分で見つけ出す眼がなくてはならん、そこが肝心だ! 何よりも手腕だよ! わしにとってはぶきりょうな女というものがないのだ、女であることが、もう興味の半ばをなしておるのだよ、いや、こんなことはおまえたちにわかるはずがないて! 老嬢などという手合いの中からでも世間のばか者どもはどうしてこれに気がつかずに、むざむざ年を食わしてしまったのかと、驚くようなところを捜し出すことがときどきあるのだよ、はだし女やすべたには、初手にまずびっくりさせてやるのだ――これがこういう手合いに取りかかる秘訣ひけつなのさ、おまえは知らないかい? こういう手合いには、まあ、わたしのような卑しい女を、こんな立派な旦那様だんなさまが、と思って、はっとして嬉しいやらはずかしいやらで、ぼうとした気持にしてしまわにゃいかんて、いつも召し使いに主人があるように、いつもこんなげす女にれっきとした旦那がついてるなんて、うまくできておるじゃないか、人生の幸福に必要なのは全くこれなんだよ! ああそうだ!……なあアリョーシャ、わしは亡くなったおまえのおふくろをいつもびっくりさせてやったものだよ、もっとも、別なやり方ではあったがね、ふだんは、どうして、甘いことばひとつかけることじゃなかったが、ちょうどころあいを見はからってはだしぬけに精一杯ちやほやして、あれの前で膝ひざを突いてはいずり回ったり、あれの足を接吻したりして、あげくの果てには、いつでも、いつでも――ああ、わしはまるでつい今しがたのことのように覚えておるが、きっとあれを笑い転げさしてしまったものだよ、その小さい笑い方が一種特別で、こぼれるような、透き通った、高くないが、神経的なやつさ、あれはそんな笑い方しかしなかったんだよ、そんな時は決まって病気の起こる前で、あくる日はいつも、憑つかれた女になってわめきだす始末だ、だから今の細い笑い声もけっして嬉しさの現われではなく、こちらは一杯食わされたことになるのだけれど、それでもまあ嬉しいには違いないさ、どんなものの中からでも特別な興味を捜し出すっていうのは、つまりこれなんだよ!」