「花鳥風月の科学」松岡正剛


日本とは?日本人とは?と聞かれたらどう答えるか。

海外に住むという今の環境上、そういうことをよく考える。ここにいると、今まで馴れ合いで何となく身につけてきたアイデンティティは全部削ぎ落とされてしまうので、自分のナショナリティが突如として大きなアイデンティティに感じられるからだ。また、国際理解のきっかけとして比較文化という手段を使う際に、比較の基準を持っていないと話にならない、というより逼迫した目的もある。

千夜千冊でお馴染みの松岡正剛の日本論である。山、道、神、風、鳥、花、仏、時、夢、月、という10項目にわたって、日本的文化の成り立ちを分析している。科学がタイトルで言及されている通り、科学の学説も時折援用される。科学的理解は日本人だけに適応されるわけではないことと、どれもSFに近い学説なので、参考程度でよいと思う。むしろ、こういった学説や和歌や古語などが大量に示されて、モザイク的に浮かび上がるイメージを作ろうとしていることのほうが興味深い。理論やモデルを検証していく科学的論文とは明らかに毛色が異なる。したがって、全体として何を述べているのかを一言でまとめるのはとてもむずかしい。

 

そうは言っても試みに少し本論をまとめると、まず前半では、山や神といった古くから信仰と畏怖の対象になってきたものを挙げ、これらがやってくる/帰っていくものとして道が考えられていたという理解がなされる。よく言われる八百万の神とは、生活に満ち満ちた神の気配、そしてそれらを感じることのできるツールたちをさす。では、そういった神の気配を運ぶメディアは何だったのかという問いに、それは風であり鳥であったと答えている。古来日本人は、風や鳥に季節や天候、気配を感じ、それを神の気配として解釈していたということだ。では、なぜこれらがメディアとして選ばれたか。それは、神も、風も鳥も、どこからやってきてどこに消えるのか、人間にはわからないからである。また、日本における時について、それは時刻ではなく時間のことを指し、流動的なものというよりも、他によって定められるある点からある点までの間をさしていた。そしてその間には本来何もなく、空(うつろ)とも呼べる無があったという。

 

僕が感じた「花鳥風月」の全体を通じている大きなテーマは、「自他の区別」といえるような感覚である。現実と夢、理想と言っても良い。その両者の境を道に定め、それを超えた向こうに、山や神の存在を感じあこがれる。失われた片方をもとめてそれらへの憧憬を表す文化というのが、紹介される歌にはよく現れている。一方、手元にある片方はタオイズムや仏教からインスパイアされた、虚無の発想で理解される。そして、これらを生きる間(時)をどう埋めるか、そういったことにも、日本人は大きな興味をもって取り組んできた。

この「自他」の発想の例として、和魂漢才、和魂洋才とまとめられる日本人のスタンスがある。大和魂をベースに他からの技術を導入していこうとする立場である。ここにもきれいな自他の区別がある。大和魂という日本人古来の自分の立場を守りつつも、あこがれでもある他からの要素を取り込もうとする姿勢が歴史を通じて貫かれてきた証拠だと言える。肝心の、大和魂という日本人古来の立場が何か、ということは現時点でよくわからない。ただ、本質はこういった区別を好むという仕組みに潜んでいるのではないか、という構造主義的理解は少なくとも可能だ。

少し気になるのは、この本を通じて述べられるイメージというものが、外国人のもつそれとどの程度異なっているのかという観点が不明瞭であった点である。例えば、失われた片方を追い求める感覚というのは、プラトン「饗宴」でアリストフェネスが解釈する、愛の源泉として取り合げられている。他にも、チルチルとミチルが追い求めた青い鳥もそのイメージから来ていると思う。したがって、これらは必ずしも日本固有の感覚とは言えないかもしれない。ただし、大陸から切り離され、多民族からの暴力的な侵入を経験してこなかった民族が、他をより漠然とイメージして畏怖憧憬し、現実に欠いているもをそこに求めるという感覚は成り立ちるように思う。大陸にすむ民族は、より簡単に他を経験することが出来るので、その点は大きな違いを生んだのではないか。

この感覚を現代に当てはめると、山が消え、神が消え、仏が消え、世界が縮小していく現代の潮流は、日本人からするととても生きづらいことのように感じられるだろう。ロケットが月に到達したとき、人類の発展と力の拡張を喜んだ人がいた一方、筆者は悲しんでいたと述べている。これでまたひとつ貴重な「他」が消えてしまった、と。この感覚はよく理解できる。オカルトや非科学的なものが好まれるのもその証拠の一つだろう。我々は次になにをあこがれの対象として定めれば良いのか、見据えられているだろうか。進歩史観に則った発展や進歩、より豊かな生活といった世界的な価値観と異なるものを見つけることが出来たならば、日本人の独自性というものが再び浮き上がってくる可能性があるように思えるのである。

 

 

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