「夜と霧の隅で」北杜夫


北杜夫の書いたものが好きだ。特に「ドクトルマンボウ航海記」は大のお気に入りで、若い時分に本が嫌いだったころもこれだけは折にふれて手にしていた。長いこと彼はエッセイストだと思っていたが、実は小説も書いていることを知り、この本を読んでみた。

「楡家の人びと」でなくこちらを選んだのは、何となくタイトルに惹かれたからだ。もうすぐこちらに届くであろう本家「夜と霧」への興味とも相まったのだと思う。

山の話が多い。彼は信州で青春期を過ごしているので、当然その頃の経験が随所に現れる。蝶の収集家の話も面白いが、やはり白眉は表題作だろう。

ナチス・ドイツの時代、ドイツの片田舎にある古い精神病院に対し「不治患者」を転院させよ、という命令が下る。転院とは名ばかりで、ガス室で処分されるであろうことは誰の目にも明らかだった。そこから医師たちの静かな戦いが始まる。長期間見放されていた荒廃期の患者と膝を突き合わせて向き合うもの、リストに乗りそうなぎりぎりの患者に重点をおいて治療するもの、そして院内で最古参の医師は、最も荒廃した患者ばかりを集め、インシュリンや電気療法などあらゆる危険で効果の未知な治療を試みる。

結果は何も動かなかった。ごく一部の者は回復したが、ほとんどの場合はリストに入ることを免れず、結局かなりの人数がガス室に送られた。治療の過程で死亡したものもあった。医師の戦いはどうしようもなく無力に終わった。

随所随所で、精神医療の難しい立場が非常に浮き彫りになる。客観的に治療過程を明示しにくい、したがって不治とも治療可能とも証明することが出来ない。そもそも何をもって精神に異常をきたしているとするのか、確実な指標はない。一見まともな行動をとり確実に回復していた患者が退院の当日に首を括ったりする。客観的に狂気と正常を見極めることの難しさ。

また社会との関係も難しい。ナチスでなくともこういう姿勢は随所に見受けられる。精神障害者は断種し社会的に抹殺しておけ、というのが一番簡単で確実な方法だからだ。産婆が現役だった頃は、明らかに奇形と分かる子や精神障害の特徴が顕著な場合、産まれた直後に嬰兒を殺し親には死産として処理していたとも言われる。居なければよい、というのが社会がほぼ一貫して取ってきた姿勢なのだと思う。

ケルセンブロックは無言で立ちつくしていた。 「君は人間自体にあやまった信仰を抱いているのじゃないか。そりゃあ君、僕だって患者たちが天から与えられた寿命をすごせる時代を待ちのぞんでいるよ。しかし人間についての僕の考察をいえば、この時代やこの戦争が特に暗黒な目をおおう時代とは思えないね。人間の文化、道徳、殊に進歩に関する概念なんてものはたわごとだ。人間の底にはいつだって暗い不気味なものがひそんでいるのだよ。」

教訓めいたことは何も主張されない。ただ、現実とそれに対する医師たちの姿勢、そして無残な敗北だけが描かれる。解釈するのではなくただ受け止めるべき光景が繰り延べられる。

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