「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」フィリップ・K・ディック


アンドロイドはそもそも夢を見るのか?命題は語義の定義不足と言っていいほどに掴み難く答えにくい。

舞台は核によって汚染され荒廃した地球である。ほとんどの人間は人型アンドロイドの手を借りて火星に移住してしまっている。主人公は、火星から主人の手を逃れて脱走したアンドロイドを狩るプロのハンターである。その彼があるとき、アンドロイド狩りの「正義」に疑問を抱いてしまう。それは、ある美しい声を持つアンドロイドに出会って、アンドロイドも彼にとっては殺戮するに耐えない美点を持っていることに気づいてしまったからだ。

全体を通じて、人間とアンドロイドの境界についての考察が何度も登場する。ディックは明瞭に、人間の条件を「共感」に定める。ハンターが用いる判別テストもそこを利用したものである。人間が動物や他の人間に感じる共感がアンドロイドにはない。あったとしても反射的なものではない。主人公もその同僚も、テストにかけたアンドロイドも、自分が、彼が、人間なのか、アンドロイドなのか、ちっぽけで頼りないテストにすがるようにして判断しようと試みる。

アンドロイドは、生命に対する畏怖の感覚を持ち合わせない。そしてそのことに自分たちでは気づいていない。人間が必死に助けだした天然の蜘蛛の足を、一本ずつ切り離したりする。主人公が大枚をはたいて買い求めた貴重なヤギを、ビルから突き落として殺したりする。

生命に対するおもいやり、という感覚がアンドロイドにプログラミングされなかったというのは興味深いことだ。自分がかろうじて生命たろうとする存在でありながら、同じように生命にしがみつく存在に対して、対等な想定が出来ない。想定、とか仮説というのは、別にプログラミングしづらいわけではないと思う。ある状況において、無条件に仮説をたてそれに従うのは、わりと機械的な反射行動にすぎない。ただ、「親切」や「共感」となるとこれは困難になりそうだ。

自分がテストを受けたらどちらになるだろうか?客観的特徴からすると僕はアンドロイドに近い気がする。でも僕は人間だ。しかしそう思い込んでいるだけで、宇宙の何処かの星から送り込まれ記憶を修正された良く出来たアンドロイドかもしれない。ならば冒頭の答えは明瞭だ。アンドロイドも夢を見る。

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