Vienna ヴィトゲンシュタインの生家(?)

午前はレオポルト美術館。世界最大のシーレコレクションを見る。よく見る大作よりさらっと描かれたスケッチが好みだった。(写真もスケッチ。水彩)

午後はウィトゲンシュタイン生家を探してウィーンじゅうを彷徨う。

ざっとググると、彼の生家はAlleegasse 16という場所だということもっぱらの噂だったので、地図を見ると、とてもウィーンとは呼べぬ、ドナウ川の反対岸を北に10kmほどの地区に、なるほど同名の通りがある。仕方なしに近くまで電車で行き、あとはタクシーを捕まえてそこまで辿り着こうとするも、運転手もそんな場所はとんと知らないという。そんなはずはないので、地図を見せたりスペルを朗読したりしてなんとかカーナビで見つけてもらった。ふと嫌な予感がしたのはそれから15分後ほどたってから、よくよくwikipediaを見ると、

Wittgenstein was born at 8:30 pm on 26 April 1889 in the so-called “Wittgenstein Palace” at Alleegasse 16, now the Argentinierstrasse, near the Karlskirche.  – wikipedia

なんと現在の名は、Argentinierstrasseというらしい。慌ててもう一度地図を見ると、さてArgentinierstrasseは、今朝まで泊まっていたホテルのすぐとなりであった。なんという時間と金の無駄遣いだと我ながら呆れた。いつもの癖で無鉄砲にタクシーまで駆けて、無関係の場所にたどり着くとは愚にもつかない。仕方なしに運転手に適当な場所で引き返してもらった。トルコの出身だといい、愉快に東京のうわさ話などしていた彼も、だんだんと見知らぬ田舎町に突入していき、どう見ても観光客のこの男がこんな場所に一体なんの用があるのかと訝しげであった。

というわけで、よく見てもらえれば通りと番地が建物の下部に掲示されいてるのが見える(かもしれない)。建物には当時の面影はないが、その前の生家の通りは、カールス教会に近く、遠くに別の教会の塔も望める落ち着いた裏通りであった。

 

“Chess story” Stefan Zweig

 

引き込まれる展開。筆さばきも素晴らしく英語がところどこらわからなくても疾走感はあった。これ原著はドイツ語だったのか。英語版Kindleで読みました。

ひとつだけ。
天才は自分の頭のなかでかなりのものを作り上げ操作することが出来る。苦なく出来る。(多分出来る。)私はずっとそういう才能を本当に羨ましいと思っていた。何かを理解し頭のなかでいじれるようになるために、そしてそれを維持するために、どれだけの苦労があるかと思うと、そういった苦労を知らないですむ天才たちを素直に羨ましいと思っていた。
たが、ここで出てくるDr.Bは少し違う。確かに彼ははじめからチェスにTalentedではあったが、ナチスの尋問室に閉じ込められ、他に何もすることがない状況で偶然手にした本がチェスの棋譜集だったことから、すがるようにチェスにはまり狂っていく。チェス盤を頭にいれ、こまを頭に入れ、歴代のグランド・マスターの棋譜を頭に入れ、一人で二人の役を演じ対戦を繰り返し繰り返し繰り返し、、、完全に完結したチェスワールドを頭のなかに創りあげてしまった。
こうなるともう誰も彼を止めることは出来ない。暴走する思考は彼の行動を狂わせ、精神はもちろん肉体をも傷つけて、狂気に陥って破滅した。
Finally this monomaniacal obsession began to afflict not only my mind, but my body. I grew thinner; my sleep was fitful and restless; on waking an exceptional effort was required to open my heavy eyelids. On occasion I felt such enervation that I could bring a drinking glass to my lips only with effort, so badly did my hands shake. But the moment a game began an elemental power overcame me: I dashed back and forth with clenched fists, and sometimes I heard my own voice, as if through a red mist, hoarsely and angrily yelling ‘Check!’ or ‘Checkmate!’ to itself.
僕が勉強するのに少しばかり怠惰なのは、自分を狂気から守るためかもしれない。
自分の生活に無駄なものが溢れているのも、自分を偏狭と視野狭窄から守るためかもしれない。
そう思うと、やる気の出ない気怠い自分も、すぐ気が散る散漫な自分も多少は愛せるようになる。

「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー

「わしの原則によるとな、どんな女の中にも、けっして他の男には見つからんような、すこぶる、そのおもしろいところが見つけ出せる――だが、自分で見つけ出す眼がなくてはならん、そこが肝心だ! 何よりも手腕だよ! わしにとってはぶきりょうな女というものがないのだ、女であることが、もう興味の半ばをなしておるのだよ、いや、こんなことはおまえたちにわかるはずがないて! 老嬢などという手合いの中からでも世間のばか者どもはどうしてこれに気がつかずに、むざむざ年を食わしてしまったのかと、驚くようなところを捜し出すことがときどきあるのだよ、はだし女やすべたには、初手にまずびっくりさせてやるのだ――これがこういう手合いに取りかかる秘訣ひけつなのさ、おまえは知らないかい? こういう手合いには、まあ、わたしのような卑しい女を、こんな立派な旦那様だんなさまが、と思って、はっとして嬉しいやらはずかしいやらで、ぼうとした気持にしてしまわにゃいかんて、いつも召し使いに主人があるように、いつもこんなげす女にれっきとした旦那がついてるなんて、うまくできておるじゃないか、人生の幸福に必要なのは全くこれなんだよ! ああそうだ!……なあアリョーシャ、わしは亡くなったおまえのおふくろをいつもびっくりさせてやったものだよ、もっとも、別なやり方ではあったがね、ふだんは、どうして、甘いことばひとつかけることじゃなかったが、ちょうどころあいを見はからってはだしぬけに精一杯ちやほやして、あれの前で膝ひざを突いてはいずり回ったり、あれの足を接吻したりして、あげくの果てには、いつでも、いつでも――ああ、わしはまるでつい今しがたのことのように覚えておるが、きっとあれを笑い転げさしてしまったものだよ、その小さい笑い方が一種特別で、こぼれるような、透き通った、高くないが、神経的なやつさ、あれはそんな笑い方しかしなかったんだよ、そんな時は決まって病気の起こる前で、あくる日はいつも、憑つかれた女になってわめきだす始末だ、だから今の細い笑い声もけっして嬉しさの現われではなく、こちらは一杯食わされたことになるのだけれど、それでもまあ嬉しいには違いないさ、どんなものの中からでも特別な興味を捜し出すっていうのは、つまりこれなんだよ!」

ワインを飲むということ

もうひとつは、感じるということの意味を知ったこと。厳密には感じたこととその言葉での表現というものがどう関連しているのかということがわかったこと。これはワインの試飲のおかげかなと思う。最初は試飲のテクニック(作法)にそって飲むだけで、まぁ赤か白かぐらいしかわからなかったけれど、ぶどうの種類や特徴を把握し、そういった知識と目の前の得体のしれない液体とを、自分の感性と理性を使って分析し表現するという流れは、わかってくると非常に新鮮でかつとても難しかった。

まず、感じるということそのものがよくわからなかった。しかし、ワインを数多く飲んでいくうちに、神の雫で出てくるような、嗅覚や味覚から瞬時に喚起されるイメージみたいなものは確かに自分の中にあることが分かった。それは今まで意識されることはなく、客に伝える、仲間に伝える、そういう表現の必要性の中で、徐々に遡及的に意識されていったような気がする。こういった自分の中にあったはずなのに意識されてこなかった部分の発見というのはとても楽しい。
また、感じたことを表現することはとても基本的なことだけれど、実際にやってみるとこれまたすごく難しい。感じたことは感じたことであってそれを正確無比に表現することはどうしたって出来ない。自分の中の前例と比較してみたり、他のものに比喩を求めたりして、学問体系の中では有用に見える論理的な分析、表現手法が、自分の感覚に対して四苦八苦する様がとても斬新だった。と同時に、書かれたものがどのように現実の印象と異なっているのかという逆算もできるようになった。(少なくとも書かれたものと現実の感覚というものがどれほどかけ離れたものでありうるかということがわかった。)
さらに、感覚や感情は詳細で分析的な記憶がとてもむずかしい。これはあれだ、というのはぼんやり分かってもではどの点がどのように似ていていどのように異なるのか?などと少し突っ込まれると途端にできない。1杯前のグラスでさえそれは難しい。言葉(文字)に救い出せないということは記憶されないということだ、という歴史家の苦悩もちょっとわかる。文学や絵画などの芸術という、自分の知っていた無味乾燥な知識の外側にあるものを初めて認知した、そしてそういうものがなぜ必要なのか、何を伝えようとしているのか、ということが少し分かったのもこの時だった。