「夜と霧」ヴィクトール・フランクル

もっと若い時に読んでおくべきだった。第二次世界大戦中の強制収容所にいた心理学者が書いた、収容所内部の心理学的な記録である。

まず、全体を通じて言えることは、想像しうる限り地球上で最も過酷な状況にありながら、現実との距離感をとり、学術的な俯瞰的分析をし続けた著者の尋常ではない意志の強さが感じられる、ということだ。著者も述べているが、そういった距離感をとることで、自分を過酷極まりない状況から守っていた側面も強くあるに違いない。しかしそれでも、自分の生命が暗い予感に満ち溢れ、いつ終わるとも知れぬ地獄の日々に生きるとき、そういった客観的視点を持つことの難しさは並々ならぬであろう。

他にも、一貫して描かれる「堕落」と「内面性の高貴さ」という対比が印象的であった。被収容者たちの中には、収容所生活に絶望し、現実逃避と無気力のうちに日々を送りついには心折れてしまうものたち、更には他よりも少しだけ地位の高い管理者側に抜擢され、仲間を虐げることに生きがいを求めるような堕落したものたちがいる。一方で、絶望をきっかけに自身の内面性を高め自分の心を見つめなおす人間や、極限の飢餓と疲労のうちにあってなお、他者にパンを分け、気遣いの言葉をかける聖人のような振る舞いをする人間もいる。

かつてドストエフスキーはこういった。「私が恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」

筆者は人間の内面性、そこの深奥に残る自由な判断、それこそが人生を生きるに値する、苦悩に値するものにすることが出来ると言い切る。どこまでも追い込まれ、不幸の縁に行き詰まり、生きる目的も意味も失ってなお、それをそれとして受け入れ、私が私の人生に期待されてる働きを見出し、そこに向かって生きる。刻一刻と変化する状況がどこまで自分を囲い込んでも、最後にどう行動するかは自分が決める。ニーチェの描く超人のようなおよそ度を超えた人間が、そこに実際に現れたのである。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

筆者は生き延びることが出来たが、妻も両親も失っていたことを、戦後になって知る。その絶望と不幸についてもあくまで客観的な分析がなされる。わずか200ページに収めるにはあまりに悲惨で壮絶な体験をした筆者の、それでも学問を捨てず本を書き、生を全うした姿勢にこそ、読後の深い感動が由来するに違いない。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」フィリップ・K・ディック

アンドロイドはそもそも夢を見るのか?命題は語義の定義不足と言っていいほどに掴み難く答えにくい。

舞台は核によって汚染され荒廃した地球である。ほとんどの人間は人型アンドロイドの手を借りて火星に移住してしまっている。主人公は、火星から主人の手を逃れて脱走したアンドロイドを狩るプロのハンターである。その彼があるとき、アンドロイド狩りの「正義」に疑問を抱いてしまう。それは、ある美しい声を持つアンドロイドに出会って、アンドロイドも彼にとっては殺戮するに耐えない美点を持っていることに気づいてしまったからだ。

全体を通じて、人間とアンドロイドの境界についての考察が何度も登場する。ディックは明瞭に、人間の条件を「共感」に定める。ハンターが用いる判別テストもそこを利用したものである。人間が動物や他の人間に感じる共感がアンドロイドにはない。あったとしても反射的なものではない。主人公もその同僚も、テストにかけたアンドロイドも、自分が、彼が、人間なのか、アンドロイドなのか、ちっぽけで頼りないテストにすがるようにして判断しようと試みる。

アンドロイドは、生命に対する畏怖の感覚を持ち合わせない。そしてそのことに自分たちでは気づいていない。人間が必死に助けだした天然の蜘蛛の足を、一本ずつ切り離したりする。主人公が大枚をはたいて買い求めた貴重なヤギを、ビルから突き落として殺したりする。

生命に対するおもいやり、という感覚がアンドロイドにプログラミングされなかったというのは興味深いことだ。自分がかろうじて生命たろうとする存在でありながら、同じように生命にしがみつく存在に対して、対等な想定が出来ない。想定、とか仮説というのは、別にプログラミングしづらいわけではないと思う。ある状況において、無条件に仮説をたてそれに従うのは、わりと機械的な反射行動にすぎない。ただ、「親切」や「共感」となるとこれは困難になりそうだ。

自分がテストを受けたらどちらになるだろうか?客観的特徴からすると僕はアンドロイドに近い気がする。でも僕は人間だ。しかしそう思い込んでいるだけで、宇宙の何処かの星から送り込まれ記憶を修正された良く出来たアンドロイドかもしれない。ならば冒頭の答えは明瞭だ。アンドロイドも夢を見る。

「夜と霧の隅で」北杜夫

北杜夫の書いたものが好きだ。特に「ドクトルマンボウ航海記」は大のお気に入りで、若い時分に本が嫌いだったころもこれだけは折にふれて手にしていた。長いこと彼はエッセイストだと思っていたが、実は小説も書いていることを知り、この本を読んでみた。

「楡家の人びと」でなくこちらを選んだのは、何となくタイトルに惹かれたからだ。もうすぐこちらに届くであろう本家「夜と霧」への興味とも相まったのだと思う。

山の話が多い。彼は信州で青春期を過ごしているので、当然その頃の経験が随所に現れる。蝶の収集家の話も面白いが、やはり白眉は表題作だろう。

ナチス・ドイツの時代、ドイツの片田舎にある古い精神病院に対し「不治患者」を転院させよ、という命令が下る。転院とは名ばかりで、ガス室で処分されるであろうことは誰の目にも明らかだった。そこから医師たちの静かな戦いが始まる。長期間見放されていた荒廃期の患者と膝を突き合わせて向き合うもの、リストに乗りそうなぎりぎりの患者に重点をおいて治療するもの、そして院内で最古参の医師は、最も荒廃した患者ばかりを集め、インシュリンや電気療法などあらゆる危険で効果の未知な治療を試みる。

結果は何も動かなかった。ごく一部の者は回復したが、ほとんどの場合はリストに入ることを免れず、結局かなりの人数がガス室に送られた。治療の過程で死亡したものもあった。医師の戦いはどうしようもなく無力に終わった。

随所随所で、精神医療の難しい立場が非常に浮き彫りになる。客観的に治療過程を明示しにくい、したがって不治とも治療可能とも証明することが出来ない。そもそも何をもって精神に異常をきたしているとするのか、確実な指標はない。一見まともな行動をとり確実に回復していた患者が退院の当日に首を括ったりする。客観的に狂気と正常を見極めることの難しさ。

また社会との関係も難しい。ナチスでなくともこういう姿勢は随所に見受けられる。精神障害者は断種し社会的に抹殺しておけ、というのが一番簡単で確実な方法だからだ。産婆が現役だった頃は、明らかに奇形と分かる子や精神障害の特徴が顕著な場合、産まれた直後に嬰兒を殺し親には死産として処理していたとも言われる。居なければよい、というのが社会がほぼ一貫して取ってきた姿勢なのだと思う。

ケルセンブロックは無言で立ちつくしていた。 「君は人間自体にあやまった信仰を抱いているのじゃないか。そりゃあ君、僕だって患者たちが天から与えられた寿命をすごせる時代を待ちのぞんでいるよ。しかし人間についての僕の考察をいえば、この時代やこの戦争が特に暗黒な目をおおう時代とは思えないね。人間の文化、道徳、殊に進歩に関する概念なんてものはたわごとだ。人間の底にはいつだって暗い不気味なものがひそんでいるのだよ。」

教訓めいたことは何も主張されない。ただ、現実とそれに対する医師たちの姿勢、そして無残な敗北だけが描かれる。解釈するのではなくただ受け止めるべき光景が繰り延べられる。

「1984」ジョージ・オーウェル

権力とは人間の精神をずたずたにし、その後で改めて、こちらの思うがままの形に作り直すことなのだ。

社会主義国家に似た、厳格に支配され監視された社会において、異端思想を抱くようになった主人公ウィンストンが徐々に改心させられていく話である。この本はよく、テクノロジーが生活を支配し人々を監視する社会の実現を警告するような文脈で引用されることが多いような気がしていたが、物語の核心はそれとは少し違うところにあった。

ウィンストンは思う――自分よりも高度の知性を持った狂人に対して何が言えるというのだ? こちらの言い分に十分耳を傾けながらも、自らの狂気じみた主張をやみくもに押し通す人間に対して?

自分よりも知性の高い人間が、「カラスは実は白いんだ」と主張したとする。そして拷問の挙句、自分もそうだと思い込むとする。その時世界中のカラスが白くなるのである。独我論を地で行く拷問者に対して、ウィンストンはこのように自らに問い絶望する。本来ならば論破されるべき事項も、党の採用する常識を超えた論理(二重思考という名の矛盾許容など)をもって説明され、その論理そのものに対する疑いは拷問をもって封殺される。こうなった場合、人間にはなすすべはない。

恐ろしいのは、この仕組みはほぼすべての人間に当てはまるであろうことだ。警察による取り調べにも同じ手法が取られている。連日の取り調べとそれによる体力消耗、外部からの情報遮断による客観的視点の喪失、そして論理的思考力と反抗への意思が消耗し、最後には別の人間になる。これは普遍的なシステムであるから、基本的には誰にも抗えない。

そこでは、狂気はどちらか、ということが真剣な問題になる。ある納得出来ない主張を注ぎ込まれるという体験は極めて不快なものだ。自分の持っている視座からすれば、すべての理解を超えたものは狂気に分類される。狂気を埋め込まれることの総毛立つような恐怖。さらに恐ろしいのは、そうして注ぎ込まれた狂気が今度は自分の視座となり正常となって不可視化することである。こうなってしまうと、自分ではどうにも出来ない。

「われわれはとても引き返せないほど徹底的に君を叩き潰すことになる。これから君は、たとえ千年生きたところで元に戻ることが不可能な経験をするだろう。普通の人間としての感情を二度と持てなくなるだろう。君の心のなかのすべてが死んでしまう。愛も友情も生きる喜びも笑いも興味も勇気も誠実も、すべてが君の手の届かないものになる。君はうつろな人間になるのだ。われわれはすべてを絞り出して君を空っぽにする。それからわれわれ自身を空っぽになった君にたっぷり注ぎこむのだ。」

そして実際に物語の最後では、ウィンストンはビッグブラザーを愛しはじめ、そして過去もずっとビッグブラザーを愛していたと信じるようになり落涙する。

我々に当てはめて考えると、実は同じようなことが起きている。それは教育である。教育とは、ある種の義務によって国民全体を一定の思考形式に当てはめるためのシステムである。このシステムにおいて、子供は本来の形式を捨てさせられて、そこに社会の求める形式を流し込まれる。これは本人は意識されないし、それを実行する教師にもおそらく顕在的には意識されない。社会が求める成功や希望を鼻先にぶら下げ、それに向かって走ろうとする限り、生徒にはその形式を受け入れ忠実に実行する他はない。その過程で、その形式は思考の前提化され、本人にはどうしようもないレベルに刷り込まれる。

刷り込まれたものは、構造主義的な主張によって時々白日のもとになり、本人を驚かせる。しかし、そのような暴露に実用的な意味は無い。彼らにとってその視座は信仰でも意識の対象でもないので、そういうものがあると指摘されたところでどうしようもないのである。たとえ意識化出来たとして、それを知りつつも黙って受け入れるしかない。

読後には、自分の思考が自分で制御し保護することができるという、漠然とした思い込みが徹底的に破壊されていることうけあいである。人間に許されるのは、ただそれに従う、もしくそうと知りつつも従う、せいぜいここまでである。

「花鳥風月の科学」松岡正剛

日本とは?日本人とは?と聞かれたらどう答えるか。

海外に住むという今の環境上、そういうことをよく考える。ここにいると、今まで馴れ合いで何となく身につけてきたアイデンティティは全部削ぎ落とされてしまうので、自分のナショナリティが突如として大きなアイデンティティに感じられるからだ。また、国際理解のきっかけとして比較文化という手段を使う際に、比較の基準を持っていないと話にならない、というより逼迫した目的もある。

千夜千冊でお馴染みの松岡正剛の日本論である。山、道、神、風、鳥、花、仏、時、夢、月、という10項目にわたって、日本的文化の成り立ちを分析している。科学がタイトルで言及されている通り、科学の学説も時折援用される。科学的理解は日本人だけに適応されるわけではないことと、どれもSFに近い学説なので、参考程度でよいと思う。むしろ、こういった学説や和歌や古語などが大量に示されて、モザイク的に浮かび上がるイメージを作ろうとしていることのほうが興味深い。理論やモデルを検証していく科学的論文とは明らかに毛色が異なる。したがって、全体として何を述べているのかを一言でまとめるのはとてもむずかしい。

 

そうは言っても試みに少し本論をまとめると、まず前半では、山や神といった古くから信仰と畏怖の対象になってきたものを挙げ、これらがやってくる/帰っていくものとして道が考えられていたという理解がなされる。よく言われる八百万の神とは、生活に満ち満ちた神の気配、そしてそれらを感じることのできるツールたちをさす。では、そういった神の気配を運ぶメディアは何だったのかという問いに、それは風であり鳥であったと答えている。古来日本人は、風や鳥に季節や天候、気配を感じ、それを神の気配として解釈していたということだ。では、なぜこれらがメディアとして選ばれたか。それは、神も、風も鳥も、どこからやってきてどこに消えるのか、人間にはわからないからである。また、日本における時について、それは時刻ではなく時間のことを指し、流動的なものというよりも、他によって定められるある点からある点までの間をさしていた。そしてその間には本来何もなく、空(うつろ)とも呼べる無があったという。

 

僕が感じた「花鳥風月」の全体を通じている大きなテーマは、「自他の区別」といえるような感覚である。現実と夢、理想と言っても良い。その両者の境を道に定め、それを超えた向こうに、山や神の存在を感じあこがれる。失われた片方をもとめてそれらへの憧憬を表す文化というのが、紹介される歌にはよく現れている。一方、手元にある片方はタオイズムや仏教からインスパイアされた、虚無の発想で理解される。そして、これらを生きる間(時)をどう埋めるか、そういったことにも、日本人は大きな興味をもって取り組んできた。

この「自他」の発想の例として、和魂漢才、和魂洋才とまとめられる日本人のスタンスがある。大和魂をベースに他からの技術を導入していこうとする立場である。ここにもきれいな自他の区別がある。大和魂という日本人古来の自分の立場を守りつつも、あこがれでもある他からの要素を取り込もうとする姿勢が歴史を通じて貫かれてきた証拠だと言える。肝心の、大和魂という日本人古来の立場が何か、ということは現時点でよくわからない。ただ、本質はこういった区別を好むという仕組みに潜んでいるのではないか、という構造主義的理解は少なくとも可能だ。

少し気になるのは、この本を通じて述べられるイメージというものが、外国人のもつそれとどの程度異なっているのかという観点が不明瞭であった点である。例えば、失われた片方を追い求める感覚というのは、プラトン「饗宴」でアリストフェネスが解釈する、愛の源泉として取り合げられている。他にも、チルチルとミチルが追い求めた青い鳥もそのイメージから来ていると思う。したがって、これらは必ずしも日本固有の感覚とは言えないかもしれない。ただし、大陸から切り離され、多民族からの暴力的な侵入を経験してこなかった民族が、他をより漠然とイメージして畏怖憧憬し、現実に欠いているもをそこに求めるという感覚は成り立ちるように思う。大陸にすむ民族は、より簡単に他を経験することが出来るので、その点は大きな違いを生んだのではないか。

この感覚を現代に当てはめると、山が消え、神が消え、仏が消え、世界が縮小していく現代の潮流は、日本人からするととても生きづらいことのように感じられるだろう。ロケットが月に到達したとき、人類の発展と力の拡張を喜んだ人がいた一方、筆者は悲しんでいたと述べている。これでまたひとつ貴重な「他」が消えてしまった、と。この感覚はよく理解できる。オカルトや非科学的なものが好まれるのもその証拠の一つだろう。我々は次になにをあこがれの対象として定めれば良いのか、見据えられているだろうか。進歩史観に則った発展や進歩、より豊かな生活といった世界的な価値観と異なるものを見つけることが出来たならば、日本人の独自性というものが再び浮き上がってくる可能性があるように思えるのである。

 

 

“Chess story” Stefan Zweig

 

引き込まれる展開。筆さばきも素晴らしく英語がところどこらわからなくても疾走感はあった。これ原著はドイツ語だったのか。英語版Kindleで読みました。

ひとつだけ。
天才は自分の頭のなかでかなりのものを作り上げ操作することが出来る。苦なく出来る。(多分出来る。)私はずっとそういう才能を本当に羨ましいと思っていた。何かを理解し頭のなかでいじれるようになるために、そしてそれを維持するために、どれだけの苦労があるかと思うと、そういった苦労を知らないですむ天才たちを素直に羨ましいと思っていた。
たが、ここで出てくるDr.Bは少し違う。確かに彼ははじめからチェスにTalentedではあったが、ナチスの尋問室に閉じ込められ、他に何もすることがない状況で偶然手にした本がチェスの棋譜集だったことから、すがるようにチェスにはまり狂っていく。チェス盤を頭にいれ、こまを頭に入れ、歴代のグランド・マスターの棋譜を頭に入れ、一人で二人の役を演じ対戦を繰り返し繰り返し繰り返し、、、完全に完結したチェスワールドを頭のなかに創りあげてしまった。
こうなるともう誰も彼を止めることは出来ない。暴走する思考は彼の行動を狂わせ、精神はもちろん肉体をも傷つけて、狂気に陥って破滅した。
Finally this monomaniacal obsession began to afflict not only my mind, but my body. I grew thinner; my sleep was fitful and restless; on waking an exceptional effort was required to open my heavy eyelids. On occasion I felt such enervation that I could bring a drinking glass to my lips only with effort, so badly did my hands shake. But the moment a game began an elemental power overcame me: I dashed back and forth with clenched fists, and sometimes I heard my own voice, as if through a red mist, hoarsely and angrily yelling ‘Check!’ or ‘Checkmate!’ to itself.
僕が勉強するのに少しばかり怠惰なのは、自分を狂気から守るためかもしれない。
自分の生活に無駄なものが溢れているのも、自分を偏狭と視野狭窄から守るためかもしれない。
そう思うと、やる気の出ない気怠い自分も、すぐ気が散る散漫な自分も多少は愛せるようになる。