もっと若い時に読んでおくべきだった。第二次世界大戦中の強制収容所にいた心理学者が書いた、収容所内部の心理学的な記録である。
まず、全体を通じて言えることは、想像しうる限り地球上で最も過酷な状況にありながら、現実との距離感をとり、学術的な俯瞰的分析をし続けた著者の尋常ではない意志の強さが感じられる、ということだ。著者も述べているが、そういった距離感をとることで、自分を過酷極まりない状況から守っていた側面も強くあるに違いない。しかしそれでも、自分の生命が暗い予感に満ち溢れ、いつ終わるとも知れぬ地獄の日々に生きるとき、そういった客観的視点を持つことの難しさは並々ならぬであろう。
他にも、一貫して描かれる「堕落」と「内面性の高貴さ」という対比が印象的であった。被収容者たちの中には、収容所生活に絶望し、現実逃避と無気力のうちに日々を送りついには心折れてしまうものたち、更には他よりも少しだけ地位の高い管理者側に抜擢され、仲間を虐げることに生きがいを求めるような堕落したものたちがいる。一方で、絶望をきっかけに自身の内面性を高め自分の心を見つめなおす人間や、極限の飢餓と疲労のうちにあってなお、他者にパンを分け、気遣いの言葉をかける聖人のような振る舞いをする人間もいる。
かつてドストエフスキーはこういった。「私が恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
筆者は人間の内面性、そこの深奥に残る自由な判断、それこそが人生を生きるに値する、苦悩に値するものにすることが出来ると言い切る。どこまでも追い込まれ、不幸の縁に行き詰まり、生きる目的も意味も失ってなお、それをそれとして受け入れ、私が私の人生に期待されてる働きを見出し、そこに向かって生きる。刻一刻と変化する状況がどこまで自分を囲い込んでも、最後にどう行動するかは自分が決める。ニーチェの描く超人のようなおよそ度を超えた人間が、そこに実際に現れたのである。
わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。
筆者は生き延びることが出来たが、妻も両親も失っていたことを、戦後になって知る。その絶望と不幸についてもあくまで客観的な分析がなされる。わずか200ページに収めるにはあまりに悲惨で壮絶な体験をした筆者の、それでも学問を捨てず本を書き、生を全うした姿勢にこそ、読後の深い感動が由来するに違いない。